秋の日帰り探訪のご案内 「谷根千(やねせん)」 
平成20年10月25日(土)
少し早いようですが、秋の一日を昭和の風情が漂う東京の「谷根千(やねせん)」こと、谷中、根津、千駄木の町
を訪ねてみたいと思います。詳細については追ってご案内いたしますが、是非みなさんのご予定に入れておいて
ください。
日暮里駅を起点として、朝倉彫塑館、谷中銀座、旧安田邸などを散策する予定です。
季刊タウン誌「谷根千」(やねせん)の生い立ち
―地域の掘り起こしを中心としてー
今から約20年前、団子坂に住む子育て真っ最中の若い奥さんたち(4人)が売る側ではなく、暮らす側のタウン誌
を作りたいと「夢と情熱」を持ったところから出発しました。タウン誌の名称は『谷中 根津 千駄木』ですが、地元の
人たちから「谷根千」と略して言われるようになって、愛称として定着したものです。リーダーは、「森まゆみ」さんと
いう方で著書に『谷中スケッチブック』や『不思議の町根津』(ちくま文庫)など多数あります。
震災、戦火にも焼け残った町、谷中 根津 千駄木は〔東京の原風景〕とも言えるでしょう。これらの町をできたら
変わらずに、ずっとここにあってほしいという願いをこめて発行されたタウン誌『谷中 根津 千駄木』も創刊以来、
二十数年を経て、採算発行部数7000を割り、来年の春には終刊となるそうです。秋の探訪の機会に是非手に触
れてみたいと思っています。
山口 伊三男
谷根千情報
―根津の巻―
「根津を語って遊郭に触れないわけにはいかない」とは、森まゆみさんの言葉です。
根津の街は根津神社の門前町として開かれ、江戸時代指折りの盛り場となり、この一帯を根津と呼ぶようになった
そうです。
根津神社は、徳川六代将軍家宣の産土神(うぶすながみ)として幕府が力を入れて建立しました。全国各地から大
工や職人達が集まり大変な賑わいともなれば、其処に料理屋、遊び場などが発生するのは、自然の成り行きという
ものでしょう。
この門前町としての歓楽街はその後、紆余曲折を経ながらも明治18年には遊郭106軒、娼妓940人という盛況(吉
原の次)でした。
ところが6年前の明治12年に根津からほど近い所に東京大学が開設されて医学生などがよく通うようになり問題
となりました。前途有望な青年の行状を憂えた文部省は、明治20年12月末をもって、遊郭に関連する全ての営業
を停止させ、半年後には洲崎へ移転させることにしました。明治21年6月30日がその移転日で遊郭、引手茶屋な
どの関係者全てが引っ越すことになりました。
その日は東京中の荷馬車、大八車が集まり、遊女や抱え主と家族、家財道具を乗せて、もうもうと土煙を上げて洲
崎へ引っ越して行きました。
あんまり大騒ぎで、わけが分からなくなって馬車の荷台に面白がって乗っかった近所の子が洲崎まで連れていかれ
たなんて話もあったようです。
根津周辺を散策しながら、往時の賑わいを偲んでみるのも一興かと存じます。
山口 伊三男
−千駄木の巻ー
千駄木といえば文豪、森鴎外が住み、夏目漱石が『吾輩は猫である』を書いた所として知られていますが、昔は駒
込村の千駄木山と呼ばれていた雑木林で、千駄(馬の千頭) に乗せるほどの薪が取れたというので「千駄木」となっ
たようです。
鴎外の長女、森茉莉(もり まり)が『幼き日々』というエッセイの中で《冬はしんとした木立 に囲まれ、夏は烈しい
雨のような蝉の声に包まれた千駄木町の家、青い木の葉が空を 暗く蔽っていた奥座敷…》と子どものころ(明治40
年頃)を回想していますが、いかにも千駄木の名残を感じさせる文章です。漱石一家が駒込千駄木町57番地に引っ
越して来 て間もなく(明治36年頃)、雨戸を開けると毎朝、子猫が飛び込んでくるので猫嫌いの奥 さんは、人に頼
んで捨ててもらおうかと思案していたら「そんなに来るなら、この家が気に入っているのだから飼ってやりなさい」とい
う漱石の一言で飼う事になりました。
でも、猫のイタズラが過ぎると奥さんは物差しでパシッと打ったり、夕飯を抜いたりして罰を与えていました。ある時「奥
様、この猫はつめの先まで黒い珍しい福猫でございます」と出入りの人から言われて、今までの邪険な態度をガラリと
変えたそうです。その後、この猫をモデルにして書いた初めての長編小説『吾輩は猫である』を発表、一躍文名が上が
った のですから、ヤッパリ福猫だったのですね。
山口 伊三男
23名の参加者があり、楽しい散策の1日を過ごしました。